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1.鳥越俊太郎「日本は全国民が火の玉になって戦争に突入していった。絶対、戦争はしてはならない。僕はどんな状況になってもNOと言い続ける。戦争にNOと言えなくなったら死ぬ。」・鳥越に生きる価値なし

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鳥越俊太郎
日本の都道府県の数を55と回答した鳥越俊太郎

「絶対、戦争はしてはならない。僕はどんな状況になってもNOと言い続ける。NOと言えなくなったら死ぬ」
http://mainichi.jp/opinion/news/20130111ddm012070045000c.html
時代を駆ける:鳥越俊太郎/4 真珠湾で考える平和
毎日新聞 2013年01月11日 東京朝刊

 ◇SYUNTARO TORIGOE

 《大会前々日の昨年12月7日、鳥越さんはオアフ島内の真珠湾に行った。71年前のこの日、日本軍の奇襲攻撃があった。沈没したままの米戦艦の上に「アリゾナ記念館」が建てられている。湾を望むメモリアルゾーンにたたずんだ》

 (展示されている)戦艦アリゾナのいかり下に「おれたちは忘れんぞ」と刻んである。すごいね。アメリカ人にヒロシマ・ナガサキの話をすると、必ずこのパールハーバーを持ち出してきます。でも、犠牲者数のケタが違うし、何よりこっちは軍施設だもの。市民を巻き込んだ無差別攻撃とは明らかに違いますよ。

 《京都大学では国史学を学んだ。特に明治期に興味があるのは、日本が維新以後、日清、日露、日中、太平洋の4度の戦争を戦ったからだ》

 先日、製本された自分の卒論を手に入れました。副題が「明治期に於(お)けるブルジョワ民族主義」だって! 自由民権運動が弾圧されていく過程を書いたはず、もう内容は忘れてしまいましたが。あるとき、ふと気づいた。明治元(1868)年から数えて昨年(2012年)は144年、そして僕は72歳ですから、日本の近代史のちょうど半分を生きているんです。そう思えば、短い。

 その中で日本は4回もの戦争をした。戦争を避けることはできなかったのかと、常に考えています。いや、避ける道はあったはずだけれど、特に日中戦争から太平洋戦争に至る道は軍人も政治家も言論人も、全国民が火の玉になって戦争に突入していった。

 《メディアも戦争に協力した。だから今、ジャーナリストとして決めていることがある》

 最近、領土問題が議論され、北朝鮮が弾道ミサイル実験などしていると、勇ましい意見が必ず出てきます。アメリカと一緒にあいつらたたきつぶせ、と。だけど絶対、戦争はしてはならない。僕は最後の1人になっても、どんな状況になっても「NO」と言い続ける。それが僕が自分の胸に突きつけているあいくちです。NOと言えなくなったら死ぬ。それが戦争を知っている、歴史学を学んだ一人の人間としての、僕の気持ちです。


>その中で日本は4回もの戦争をした。戦争を避けることはできなかったのかと、常に考えています。いや、避ける道はあったはずだけれど、特に日中戦争から太平洋戦争に至る道は軍人も政治家も言論人も、全国民が火の玉になって戦争に突入していった。


戦争を避ける道は、もっと悲惨になる道しか無かった。

歴史に「たれ」「れば」を用いてもしょうがないし、そもそも私は「日本は不可避の道も含め、終戦までほぼ最善の道を歩んだ」と考えている。

鳥越俊太郎は「避ける道はあったはずだけれど、特に日中戦争から太平洋戦争に至る道は軍人も政治家も言論人も、全国民が火の玉になって戦争に突入していった。」と述べているが、そんなことはない。

支那事変(日中戦争)は、支那が一方的に支那に居た日本軍や日本人を攻撃して継続、拡大させた戦争だった。

日本軍は、日本軍自体と日本人居留民の生命と財産を守るために自衛戦争をせざるをなかった。

鳥越俊太郎は、日本軍が駐留していた当時の支那大陸において、日本人居留民が支那軍から攻撃されていても助けずに知らん振りして見殺しにするべきだったと言いたいのか?!


現在においても、支那軍が日本にミサイルを撃ち込んだり、日本を爆撃したり、日本に上陸して女子供を含む日本国民を虐殺しまくったりしても、鳥越俊太郎は「日本は防衛戦争をせずに黙って日本人は殺されていろ!」と言うのだろうか?



念のため、歴史事実を述べる。

日本は支那との合意の上で支那大陸に日本軍を駐屯させていた。

日本は、支那と条約(北京議定書)を交わし、支那の合意の上で、マトモな警察を持たなかった支那の治安維持と平和のために、支那に軍隊を駐屯させていたのだ。

1900年、「義和団の乱」で、支那人たちが北京などに駐在していた外国人を大虐殺した。
北京などで自国民が大虐殺された列国は、連合軍を派遣し、ようやく支那人どもによる外国人大虐殺事件を鎮静した。

「義和団の乱」当時の西洋の風刺画
「義和団の乱」当時の西洋の風刺画

そのときに列国と清国と結んだ講和議定書が「北京議定書」だ。
――――――――
北京議定書
北京-山海関の12の要地における外国軍の駐屯
――――――――


この「北京議定書」は、英・米・仏・露・独・墺・伊・白・西・蘭・日の11カ国と締結され、外国の軍隊が支那に駐屯し、支那の警察の役割を務めることになった。



支那事変は、支那共産党が盧溝橋事件(黄村=北京の豊台に駐屯中の日本軍を銃撃)を起こし、支那軍が停戦協定を何度も繰り返し破って継続・拡大した戦争。

盧溝橋事件の約3週間後には、支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した(通州事件)。

更に2週間後、支那軍は数十万人という大軍で上海の国際租界の日本人居留区を包囲攻撃した。
支那軍機は上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人や外国人を大量に殺害した。

その後も支那は、日本が提出した和平案をことごとく蹴り、戦争を継続し、支那人民を虐め抜いた。
支那軍による徴発・徴用・徴兵は過酷を極めた。
支那軍は、上海市街地爆撃の他、焦土作戦、黄河・揚子江の堤防破壊(決壊)などによって多くの民衆を殺害し、世界で初めて違法毒ガスを使用したり細菌戦を行なったりするなどの暴虐・悪逆の限りを尽くした。

支那が戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに、支那がそれを無視して戦争を継続・拡大して暴虐の限りを尽くした戦争なのだから、日本にとっては自衛戦争以外の何ものでもない。

支那軍による上海爆撃により夥しい数に支那人や外国人が殺害された
1937年8月、支那軍による上海爆撃により夥しい数の支那人や外国人が殺害された。


なお、『歴史通』2013年1月号には、私の投稿が掲載されている。

今回の私(coffee=佐々木益荒男)の投稿は、支那事変における「支那の悪逆暴虐と卑怯な逆宣伝」について特集している。

1937年8月の支那軍による上海市街地爆撃、1938年6月の支那軍による黄河決壊事件、1938年11月の支那軍による長沙市焼き払いなどを中心に、支那事変当時の支那の悪逆暴虐と卑怯な逆宣伝について多数の写真を使用して詳しく解説している。

是非、ご覧になり、支那事変の真相の一端を知って頂きたい。

『歴史通』2013年1月号「反日宣伝を狙った人民虐殺 支那軍の空爆・火攻め・水攻め」
『歴史通』2013年1月号
http://www.fujisan.co.jp/product/1281690614/
総力特集
日本vs中韓 文明と野蛮の戦い
P55~

■H・Nアイスコーヒー 佐々木益荒男
反日宣伝を狙った人民虐殺 支那軍の空爆・火攻め・水攻め



 
(つづき)

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