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Channel: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
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1.柴五郎(コロネル・シバ)日英同盟締結の影の立役者・義和団の乱=義和団事件=北清事変・1900年6月13日、義和団が北京内城に入城・日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ

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陸軍大將・柴五郎〜或る會津士族の生涯
陸軍大將・柴五郎

1899年~1900年、支那(清国)で、「義和団の乱」、「義和団事件」または「北清事変」と呼ばれる支那人による外国人大虐殺事件が発生した。

義和団はもともと「義和拳」と称する武術を修練する、山東省西部地方の自衛団的な組織だったが、山東省にドイツとキリスト教が進出したことに反発し、外国勢力に対する過激な排斥運動を開始した。

武装した支那人狂信者の集団(義和団=拳匪)が支那在住の外国人を大虐殺した。

乱はたちまち全土に広がり、特に111年前の1900年6月になると外国人にとってさながら地獄図となった。

1900年6月13日、義和団が北京内城に入城した。

このままでは北京に居る外国人は皆殺しになるのだが、援軍を頼もうにも本国からでは間に合わない。

そこで諸外国は日本に援軍の依頼した。

近代国家へ歩み出したばかりの日本は「侵略の野心あり」と疑われてはと警戒し、すぐには動かず、諸外国から再三の要請を受けてからやっと出動し、連合軍の主力となって乱を鎮圧した。

北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始し、頤和園も略奪と破壊の対象になったが
日本軍だけが略奪に参加しなかった事実は世界的に有名だ。

ところで北清事変の結果、清朝政府は列強に賠償を支払い、かつ他国の軍隊の駐兵権を与えざるを得なくなった。そのとき日本は北京に2600人を駐兵することを許されたのである。昭和12年(1937年)7月に日本軍部隊が北京郊外の盧溝橋にいたのは、そういう経緯があったからである。
日本軍の軍律の素晴らしさを讃えた人の中にフランスの国際法学者のポール・フォーシーユ氏がいる。
また、著書としてはフランスのフィガロ紙の従軍記者のカレスコート・イリュスト氏と、ラシオン紙のラロ氏が2人で書いた『日本軍戦闘観戦記』、ウッドハウス暎子女史の『北京燃ゆ』、ジョージ・リンチ氏の『文明の戦争』などがある。
99頁
田母神俊雄著『自らの身は顧みず』
田母神俊雄著『自らの身は顧みず』


そして、義和団事件後に結ばれた『北京議定書』によって、当時マトモな警察がなかった支那に代わって外国の軍隊が支那に駐屯して支那の平和と秩序を維持することとなった。

したがってである。

「日本軍が支那に居て支那で戦争が行われたのだから、日本の侵略だ。」という大馬鹿どもが後を絶たないが、それはただ単にその大馬鹿どもが無知なだけ。

今自衛隊が在日米軍や在日アメリカ人を攻撃すれば、日本国内でアメリカと日本の間で戦争が始まるが、その場合「アメリカの侵略だ」と言えないのと同じことだ。





「義和団の乱」(義和団事件)(北清事変)は、世界の大国であったイギリスがアジアの片隅の日本を信頼すべき相手と認め、日英同盟を生み出すきっかけとなった事件でもある。
小松宮殿下に随行し、英国王EdwardⅦ戴冠式に渡英した柴五郎
小松宮殿下に随行し、英国王EdwardⅦ戴冠式に渡英した柴五郎

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柴五郎中佐
~日英同盟締結の影の立役者~

Japan On the Globe(222)
人物探訪:コロネル・シバ

~1900年北京での多国籍軍司令官
義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。


■1.唐突な日英同盟締結の背景■

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。
しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京‐天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■3.籠城計画■

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
 
 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

■4.義和団の来襲■

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
 14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
 困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。


(つづく)

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