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Hiroki
@arigatou45671
【親日パラオ】
パラオ共和国の海底に眠る陸軍徴用船
「てしお丸」
この船と乗組員たちの命日3月30日に
自らその船体に潜り献花黙祷を捧げる
のは
トミー・E・レメンゲサウJr.
現パラオ共和国大統領です。 pic.twitter.com/Yrela1FyCr
11:29 AM - 2 Apr 2015
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【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花
有史以前のパラオについては未解明だが、近年の遺跡などの調査では、約4000年前から人が住んでいたと推定され、1855年(明治18年)、パラオはスペインの植民地となった。
スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれている。
1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却したが、その中に、パラオも含まれていた。
ドイツの植民地となったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われなかった。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まるると、ドイツに対して宣戦を布告した日本は海軍を派遣して、ドイツ守備隊を降伏させ、パラオを解放した。
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。
日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。
日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。
1920年代のパラオの町並みの写真には、右側の方にハングルの看板の店舗があるのがわかる。

ハングルの看板
ただ、今ではこの写真も、韓国人どもによって「パラオは1910年の日韓併合によってチョッパリに奪われたニダ!」と捏造宣伝に悪用されている。
日本は統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。

コロール
日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。
パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。
1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。
1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。
米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。
これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。
ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。
すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。
9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。
圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。
ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。
11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。
守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。
結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。
日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。
ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。
戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。
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「ペリリュー島の戦い」
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。
米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。
住人
死者 0名
負傷者 0名
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この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
生徒 「俺のじいちゃんは、日本の兵隊に優しくしてもらったって言っていました。皆礼儀正しく、差別もしない人達だったって」
教師 「でも、酷いことも…」
生徒 「後から来た、アメリカの方が酷かったって言っていました」
教師 「貴方のような考えの人もいるかも知れないけど、それはごく一部で」
生徒 「ごく一部じゃ駄目なんですか?」
教師 「そういうことじゃなくて」
生徒 「俺のじいちゃんの国は凄く小さいです。他の国に比べれば全然重要じゃないかも知れないけど、日本人は、そんな国も大事にしてくれたって言っていました。戦争の時、仲良くした日本兵はみんな笑って出掛けて行って、誰も帰ってこなかったと言っていました。国旗も日本を真似ました。みんな、日本を尊敬しています」
桜花のごとく散った日本兵は、満開の桜にある靖国神社に英霊として祀られている。

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、概ね転載。
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天皇皇后両陛下パラオ行幸啓、奉送迎
4月8日の御出発は午前10時31分(皇居正門)、9日の御帰着は午後9時55分(皇居正門)の御予定となりますので、次の通り実施する所存です。
【奉送日時】
4月8日(水)午前10時集合待機
【奉迎日時】
4月9日(木)午後9時30分集合待機
【奉送迎場所】
皇居前広場(二重橋前)
主催:三澤浩一
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