(つづき)
1.「平清盛」13.3%!
第6話で一気に下落
歴代最低視聴率の可能性も
制作費1話6千万円でも同時間帯4位
変わらぬ「王家」「物の怪の血」連呼
皇は王より上だから嫌「皇室」を「王室」表記の韓国メディア
のつづき
>「日本王家のルーツは韓国の百済(346~660年)王家」と信じられているためだ。
誤解する読者が居るとマズイので、念のため、この部分について説明しておく。
結論から述べると、日本の皇室のルーツが百済王族だということは絶対に有り得ない。
平成13年(2001年)12月23日、天皇陛下は、68歳の誕生日に先立つ記者会見の席で、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」
と仰った。
しかし、百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物だ。
更に、日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部だったという時代背景を忘れてはならない。
――――――
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀
――――――
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
――――――
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
――――――
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
――――――
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの日本人(倭人)だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781~806年)となったのだ。
663年、日本(倭国)は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781~806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から日本(倭国)の一地方であり、百済王は、天皇によって決められ、日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や「武寧王」などが日本(九州など)から朝鮮半島に渡って行って即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子「純陀太子」以下の子孫は、そのままずっと日本に住み着いた。
父「武寧王」(日本人)の祖国「日本」に戻った「純陀太子」から数えて9世(9代目)の子孫の一人が和乙継で、10世(10代目)が桓武天皇の生母となった高野新笠だ。
はっきり言って、皇室と韓国とのゆかりは無いに等しい。
![NHK大河ドラマ「平清盛」第6話「西海の海賊王」]()
■データ室■
21世紀 NHK大河ドラマ 視聴率 ランキング 関東
50作中
順位 年 初回 . 最高 . 平均 番 組 名
───────────────────────
17 2008 20.3 29.2 24.5 篤姫
25 2002 26.1 27.6 22.1 利家とまつ(戦国三傑)
28 2009 24.7 26.0 21.2 天地人 (戦国三傑)
33 2006 19.8 24.4 20.9 功名が辻 (戦国三傑)
36 2005 24.2 26.9 19.5 義経
39 2007 21.0 22.9 18.7 風林火山 (戦国)
40 2010 23.2 24.4 18.7 龍馬伝
42 2001 19.6 21.2 18.5 北条時宗
45 2011 21.7 22.6 17.7 江(戦国三傑)
46 2004 26.3 26.3 17.4 新選組!
48 2003 21.7 24.6 16.7 武蔵 MUSASHI
? 2012 17.3 (17.8) (16.5) 平清盛
< 地域別視聴率・上半期(名古=名古屋、北九=北部九州)>
______________関東__関西__名古__札幌__北九__仙台
01(01/08) 17.3___18.8___21.4___14.1___21.1___**.* 「ふたりの父」
02(01/15) 17.8___17.2___22.2___11.9___20.3___**.* 「無頼の高平太」
03(01/22) 17.2___18.1___22.6___14.0___19.3___**.* 「源平の御曹司」
04(01/29) 17.5___15.7___21.3___12.4___19.2___**.* 「殿上の闇討ち」
05(02/05) 16.0___16.1___20.8___12.4___15.5___**.* 「海賊討伐」
06(02/12) 13.3___12.6___**.*___**.*___**.*___**.* 「西海の海賊王」
誤解する読者が居るとマズイので、念のため、この部分について説明しておく。
結論から述べると、日本の皇室のルーツが百済王族だということは絶対に有り得ない。
平成13年(2001年)12月23日、天皇陛下は、68歳の誕生日に先立つ記者会見の席で、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」
と仰った。
しかし、百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物だ。
更に、日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部だったという時代背景を忘れてはならない。
――――――
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀
――――――
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
――――――
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
――――――
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
――――――
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの日本人(倭人)だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781~806年)となったのだ。
663年、日本(倭国)は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781~806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から日本(倭国)の一地方であり、百済王は、天皇によって決められ、日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や「武寧王」などが日本(九州など)から朝鮮半島に渡って行って即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子「純陀太子」以下の子孫は、そのままずっと日本に住み着いた。
父「武寧王」(日本人)の祖国「日本」に戻った「純陀太子」から数えて9世(9代目)の子孫の一人が和乙継で、10世(10代目)が桓武天皇の生母となった高野新笠だ。
はっきり言って、皇室と韓国とのゆかりは無いに等しい。

■データ室■
21世紀 NHK大河ドラマ 視聴率 ランキング 関東
50作中
順位 年 初回 . 最高 . 平均 番 組 名
───────────────────────
17 2008 20.3 29.2 24.5 篤姫
25 2002 26.1 27.6 22.1 利家とまつ(戦国三傑)
28 2009 24.7 26.0 21.2 天地人 (戦国三傑)
33 2006 19.8 24.4 20.9 功名が辻 (戦国三傑)
36 2005 24.2 26.9 19.5 義経
39 2007 21.0 22.9 18.7 風林火山 (戦国)
40 2010 23.2 24.4 18.7 龍馬伝
42 2001 19.6 21.2 18.5 北条時宗
45 2011 21.7 22.6 17.7 江(戦国三傑)
46 2004 26.3 26.3 17.4 新選組!
48 2003 21.7 24.6 16.7 武蔵 MUSASHI
? 2012 17.3 (17.8) (16.5) 平清盛
< 地域別視聴率・上半期(名古=名古屋、北九=北部九州)>
______________関東__関西__名古__札幌__北九__仙台
01(01/08) 17.3___18.8___21.4___14.1___21.1___**.* 「ふたりの父」
02(01/15) 17.8___17.2___22.2___11.9___20.3___**.* 「無頼の高平太」
03(01/22) 17.2___18.1___22.6___14.0___19.3___**.* 「源平の御曹司」
04(01/29) 17.5___15.7___21.3___12.4___19.2___**.* 「殿上の闇討ち」
05(02/05) 16.0___16.1___20.8___12.4___15.5___**.* 「海賊討伐」
06(02/12) 13.3___12.6___**.*___**.*___**.*___**.* 「西海の海賊王」
1996年以降の大河ドラマで視聴率20%以上を記録した回数
第1位 篤姫(2008年)・・・50回
第2位 秀吉(1996年)・・・49回
第3位 元就(1997年)・・・46回
第4位 まつ(2002年)・・・42回
第5位 功名(2006年)・・・38回
第6位 天地人(2009年)・・・35回
第7位 慶喜(1998年)・・・25回
第8位 元禄(1999年)・・・22回
第9位 義経(2005年)・・・18回
第9位 龍馬(2010年)・・・18回
第11位 風林(2007年)・・・11回
第12位 葵 (2000年)・・・10回
第12位 時宗(2001年)・・・10回
第12位 武蔵(2003年)・・・10回
第15位 シエ(2011年)・・・8回
第16位 組!(2004年)・・・6回
第17位 清盛(2012年)・・・0回 暫定
第1位 篤姫(2008年)・・・50回
第2位 秀吉(1996年)・・・49回
第3位 元就(1997年)・・・46回
第4位 まつ(2002年)・・・42回
第5位 功名(2006年)・・・38回
第6位 天地人(2009年)・・・35回
第7位 慶喜(1998年)・・・25回
第8位 元禄(1999年)・・・22回
第9位 義経(2005年)・・・18回
第9位 龍馬(2010年)・・・18回
第11位 風林(2007年)・・・11回
第12位 葵 (2000年)・・・10回
第12位 時宗(2001年)・・・10回
第12位 武蔵(2003年)・・・10回
第15位 シエ(2011年)・・・8回
第16位 組!(2004年)・・・6回
第17位 清盛(2012年)・・・0回 暫定
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