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1.山田宏「南京占領後に人口増えている」河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言を支持・日中友好協会は発言の撤回求め抗議文「旧日本軍の上級将校の団体の出版物にも記されている」

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「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長
「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120226-909386.html
河村市長の「南京大虐殺」否定発言を擁護
2012年2月26日19時38分

 政治団体「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長は26日、大阪市内で講演し、河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言に関し「間違いない。わたしも日本の汚名をそそぎたい」と述べ、河村氏を擁護した。

 山田氏は、当時の南京安全区国際委員会が作成したという文書に基づき「日本の南京占領後に、人口が20万人から翌月には25万人に増えている。虐殺があったのに増えるのか」と指摘。河村市長が中国側に南京市での討論会開催を打診していることに関し「南京でやったら駄目だ。第三国のインドがいい」と述べた。(共同)


>政治団体「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長は26日、大阪市内で講演し、河村たかし名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言に関し「間違いない。わたしも日本の汚名をそそぎたい」と述べ、河村氏を擁護した。


山田宏さん!Good job!

「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長は、2010年参院選の東京選挙区で立候補した際には、「維新政党・新風」東京都本部も支持して応援した立派な人物だ(残念ながら蓮舫らに敗れて落選)。(関連記事






>山田氏は、当時の南京安全区国際委員会が作成したという文書に基づき「日本の南京占領後に、人口が20万人から翌月には25万人に増えている。虐殺があったのに増えるのか」と指摘。


その通り!

そもそも、日本軍による占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺なんてあった筈がない。

南京で戦闘が始まった12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、南京に残った市民は全員が安全区に避難していた。


●1937年11月~12月の南京の人口推移

1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)

11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)

12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)

▼陥落直前の南京の人口に関する資料▼
――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
ステール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
――――――――――
1937年12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
――――――――――


以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が【約25万人】(安全委員会公文書)だから人口は増えた。



■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。

そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。

もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。


▼1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移▼

1937年前半  「100万人」
 ↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
 ↓
11月27日  「30~40万」
 ↓
12月13日  「20万」
 ↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が占領し支那軍が南京を去ったため増加に転じる)
 ↓
1938年9月23日 「40~50万人」

▼1938年9月23日「40~50万人」の資料▼
『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。

 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。


しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり一般の南京市民は日本軍が占領した上海へ避難していたのだった。

おそらく、河村市長には多くの応援メッセージが届いていることだろうが、「日本創新党」党首で大阪市特別顧問の山田宏前東京都杉並区長のような有力者が支持の声を上げ、報道されれば尚更心強いはずだ。




(つづく)

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