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昭和天皇とパラオのペリリュー島の戦い・昭和の日・日本国民を励ました先帝陛下のお言葉と全国ご巡幸

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先帝陛下(昭和天皇)昭和の日
先帝陛下(昭和天皇)

http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160020-n1.html
両陛下、武蔵陵墓地ご参拝 パラオ慰霊訪問を報告される
2015.4.16 11:59、産経新聞

昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市
昭和天皇の武蔵野陵を参拝し、パラオ訪問について報告された天皇陛下=16日午前、東京都八王子市

 天皇、皇后両陛下は16日午前、東京都八王子市の武蔵陵墓地にある昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)と香淳皇后の武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)を参拝し、パラオ共和国への慰霊訪問を終えたことを報告された。

 両陛下の2陵ご参拝は、外国訪問前後の慣例。陛下はモーニング姿、皇后さまはグレーの参拝服姿で、武蔵野陵、武蔵野東陵の順にお一人ずつ足を運び、深々と頭を下げられた。

 両陛下はともに3月下旬から風邪の症状がみられ、完全に回復しないまま4月8、9日の強行日程でパラオ訪問を果たされた。宮内庁幹部は「お疲れになったと思うが、帰国翌日から普段通りの生活に戻られている」としている。

両陛下、パラオ訪問を報告 昭和天皇の武蔵野陵を参拝
両陛下がパラオ慰霊訪問を報告されるため、昭和天皇の武蔵野陵をご参拝(4月16日)


【先帝陛下(昭和天皇)の心を動かしたペリリュー島の戦い】

米軍は、2~3日で、パラオのペリリュー島を攻略できると計画していた。

ところが、ペリリュー島の日本軍守備隊は、1944年9月15日早朝に米軍第一海兵師団28,400名がオレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始してから、73日間にわたって、ペリリュー島を死守した!

当時、既にサイパン、グァム等で敗北が相次いでいた日本にとって、パラオのペリリュー島の大奮戦は、先帝陛下(昭和天皇)や日本軍にとっては希望の光となった。

先帝陛下(昭和天皇)は、毎朝ペリリュー島の状況を気にされていたご様子であり、「いまペリリューはどうなっておるか」と御下問されることが日課となっていた。

そして、先帝陛下(昭和天皇)は、ペリリュー島の守備隊に対し、9月15日・17日・22日10月6日・18日・24日11月2日・7日・13日・14日・20日と11回もご嘉賞(お褒め)のお言葉を送られ、感状3回を与えられている。

11回のご嘉賞の言葉を得た部隊は、その前にも後にも例がなく、先帝陛下(昭和天皇)にとってペリリュー島の戦いが、どれだけ心を動かされたものだったかが分かる。

このようなこともあり、ペリリュー島は、米軍から「天皇の島」と呼ばれた。

米第81師団長ムラー少将は、長期にわたる大苦戦の末にペリリュー島をほぼ制圧すると、「今やペリリューは天皇の島から我々の島に移った」と宣言した。

ちなみに、アメリカは、パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線について、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(ヒロヒト)(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

パラオ、サイパン、硫黄島、そして東京を結ぶ線をアメリカは、昭和天皇がいる帝都・東京を少しでも早く攻撃するための「裕仁(昭和天皇)ハイウェイ」と呼んでいた。

(参考)
平成5年、天皇皇后両陛下は、先帝陛下(昭和天皇)が果たされなかった沖縄御巡幸を果たされた。

平成6年、天皇皇后両陛下は、慰霊のために硫黄島をご訪問。

平成17年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにサイパン島をご訪問。

平成27年、天皇皇后両陛下は、慰霊のためにパラオのペリリュー島をご訪問。



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パラオ

【日本とパラオの物語】
ペリリュー島の桜花


1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」において、パラオは日本の委任統治領となった。

日本国政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島となった。

日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住して、最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人も約2千人が居住していた。

日本の統治時代には、パラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校、病院、道路などのインフラの整備も重点的に行われ、首都のコロールは近代的な都市へと変貌していった。
コロール
コロール

日本は、パラオの住民に、疾病に係る予防接種を受けさせ、また、パラオの言語を顕すための文字を持たないパラオ住民のために、学校を建てて日本語の教科書を用いた日本語教育も行った。
パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を立てて日本語の教科書を用いた日本語教育もしました。

日本統治後のパラオでは、それまでの白人による植民地時代とは異なり、日本人の礼儀正しさや、節度、道徳心、他民族を思いやる心などが認められ、日本人はパラオの現地住民から愛された。

パラオには、太平洋上のパラオ諸島の中に「ペリリュー島」と言う南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁からできた小島がある。
このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました

このペリリュー島では、大東亜戦争の末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り広げられた。

1941年(昭和16年)に大東亜戦争が始まると、日本軍は「ペリリュー島」に東洋最大といわれる飛行場(1200m滑走路2本)をつくっていた。

パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。
パラオは、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の防衛上も重要な拠点だった。

大東亜戦争で日本軍が劣勢となる中、ペリリュー島は日本軍にとってフィリピン防衛の防波堤だったが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとってもペリリュー島の攻略が必要となった。

1944年、米陸軍を指揮するマッカーサーは、フィリピン攻略を有利に進めるため、「ペリリュー島」を奪取しなければならなかった。

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団にペリリュー島の占領を命令し、ハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻の艦艇を海兵隊支援のために差し向けた。

これら米軍は、日本軍の兵力の約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力であり、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃なども考慮すると、米軍が数百倍の火力で日本軍を圧倒していた。

ペリリュー島を守備する日本軍は、関東軍最強と呼ばれた第十四師団、その座下の水戸歩兵第2連隊、高崎歩兵第15連隊を主力とした地区隊、約1万2000人だった。

すでに、数百倍の軍事力に加え、制海権も制空権も握っていた米軍は、2~3日の攻撃でペリリュー島を攻略できると予測をしていた。

9月12日に米軍は、ペリリュー島に艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせた。

ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸があるが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まったことから、こう呼ばれるようになったとも言われている。
ペリリュー島には「オレンジビーチ」と呼ばれる海岸がありますが、ここで多くの米軍兵が戦死して、海岸が血の色に染まった事から、こう呼ばれるようになったとも言われています。

9月15日早朝、米軍第一海兵師団28,400名が、オレンジビーチよりペリリュー島上陸作戦を開始した。

圧倒的勢力を持つ米軍は、この上陸作戦は短期間で終結すると考え、昼食をオレンジビーチで取る予定でいた。

ところが、日本軍守備隊は激しく抵抗して持久戦に持ち込み、米軍第一海兵師団は全体の50%もの損失を出したので一旦撤退し上陸戦は長期化した。

11月24日、生き残った日本軍将兵はわずか60人足らずとなり、司令部陣地の弾薬もほとんど底をついたところで、司令部はついに玉砕の決断を下した。

守備隊長の中川州男大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られて、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による万歳突撃が行われた。

結局、米軍が上陸完了をしたのは11月27日だった。

日本軍は、実に73日間にわたって、ペリリュー島を死守したのだった!

日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」ということを伝えるためのものだった。
日本本土に送られた「サクラサクラ」、この六文字の電文は、ペリリュー島守備隊全員が「桜花のごとく散った」、という事を伝えるためのものでした

ペリリュー島には現住民が住んでいたが、壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、ペリリュー島の民間人には、ただの1人の犠牲者もでなかった。

ペリリュー島民は、日本人を尊敬していたので大人も子供も日本軍と一緒に戦う決意をしていたが、日本軍が島民を戦火に巻き込んではならないとしたからだ。

戦局を予期していた日本軍司令部の命令により、ペリリュー島民のパラオ本島への移住をほぼ完了させ、一部残った島民も疎開させるために戦火の中をパラオ本島へと送り出していた。

――――――――――
「ペリリュー島の戦い」

日本軍
戦死者 10,695名
捕虜   202名
※戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、戦後も2年戦い続け、昭和22年に投降。

米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
※この他に精神に異常をきたした者が数千名。

住人
死者 0名
負傷者 0名

――――――――――


この当時の様子を知る、ペリリュー島民の老人のコラム(毎日新聞)が残っている。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

日本人は仲間だと思っていたのに・・・。みせかけだったのか。裏切られた想いで、みな悔し涙を流した・・・。

船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、彼は悟ったという。あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)
守備隊長、中川州男大佐(11月24日戦死後、2階級特進し陸軍中将)

近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』「パラオ・ペリリュー島の桜花(1)、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならない、桜花のごとく散った日本軍の武士道精神」より、一部を修正し、抜粋
━━━━━━━━━━
●詳細記事
パラオのペリリュー島の桜花・天皇皇后両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5788.html
続★パラオのペリリュー島の桜花・両陛下ご訪問の地・パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか?」
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5789.html
フジが日本パラオ友好の橋を報道・「韓国が造った橋が突然崩落」・ペリリュー州が4月9日を祝日に
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5790.html






【先帝陛下(昭和天皇)のお話】

●戦中
アッツ島の日本軍守備隊
アッツ島の守備隊

昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、先帝陛下(昭和天皇)は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。

5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」

陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。

そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」と申上げると、

陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。

陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。

勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。


1943年5月,アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品がアンカレッジの博物館に展示されている。
アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

『 凛として愛 』
■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U

57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。






●戦後

先帝陛下昭和天皇行幸
先帝陛下(昭和天皇)の戦後の全国ご巡幸

毎年「昭和の日」に、私は、先帝陛下(昭和天皇)の全国ご巡幸などについて紹介している。

日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた先帝陛下を中心に、日本が結束を保ったことだった。

このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。

まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。


昭和天皇(先帝陛下

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。





【マッカーサーおよび侍従長の証言】

以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。
 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)

天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

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昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk






戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
戦災者住宅で戦災者を激励される先帝陛下(昭和天皇)、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜

●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より


釜石
釜石


昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。

それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。





先帝陛下(昭和天皇)が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
因みに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。

遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島
硫黄島


先帝陛下(昭和天皇)
昭和63年9月、先帝陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。

陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた陛下の御心は、今上陛下によって平成5年に果たされた。

東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、陛下に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。

「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」


 
 
 
 
 
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